孫と花瓶のエピソードから親心を考える
男子ばかりの孫がたくさんいる私たち家族は、家の中がいつもドタバタと大騒ぎです。
ある日、孫だけで留守番をさせたら、大切な花瓶が割れていました。
こんなとき、親はどうするでしょうか?
どのように犯人を捜し、誰を叱りますか?
子供たちを全員並べて、自分がやったと名乗り出るのを待ちますか?
「○○ちゃんが壊したんだ」と報告する子もいれば、全員が沈黙することもあるでしよう。
もし、全員が沈黙した場合、あなたならどうしますか?
- 犯人を捜し出しその子を叱る
- 年長の子を叱る
- 誰も叱らない
ある人が驚くべき答えをしました。
「一番親の心を理解できる子を叱る」 と。
その子は言い訳せず、親の心を理解し受け止め、決して怨まず、責任を担おうとするからだそうです。
そしてその子の姿に打たれた、他の子どもたちは「僕がやった」「自分にも責任があった」などと告白し悔い改め、全員の心が一瞬にして変わるというのです。
イエス様の十字架と神の心情
このような姿は、まさにイエス様の十字架に重なります。
イエス様は神様と最も深い絆を持ち、どのような状況になっても神を怨まず、自分を殺そうとした人達をも、許して愛し抜きました。
イエスは神様の心情を理解できる神様にとって、一番愛する息子だったからこそ、イエス様を十字架の犠牲とし、神様は、十字架をサタンの前に許し、涙で黙認したのです。
イエス様を罰することが目的ではなく、離れて行った弟子たちやイエスを殺せと言った群衆、やがて人類すべてに悔い改めと救いの機会を与えるためでした。
イサク献祭に見る親子の絆と信仰
旧約の「イサク献祭」も同じです。
アブラハム夫妻は神と強い絆で結ばれ、息子イサクもまたそのような父母を深く信頼していました。
自分が供え物になるとわかっても、イサクは父に従順に従い父を怨まず、犠牲の道を行こうとしました。そこには、親子と神の間に貫かれた「揺るがぬ信仰」と「愛の絆」があったのです。

家庭連合が受ける試練の意味
今日の日本家庭連合が受けているマスメディアによる偏向報道、国家権力による宗教法人への圧迫、信者家庭への差別と偏見――これらは大きな人権侵害と宗教迫害です。
また、9月22日韓国家庭連合でも、宗教弾圧が起きました。
世界平和と人類救済の血と汗と涙の苦難の道を、生涯夫と共に歩み「平和の母・人類の母」と言われ、世界150カ国以上から支持を受けている宗教指導者の韓鶴子総裁が、ロビー活動の疑いという理由で新しい左派政権(李在明政権)の政治的工作によって拘束されたのです。日本のオールドメディアは「逮捕」と報道し、韓国では「逮捕は粛正」と報道しました。
韓氏は心臓手術をしたばかりの身体で、「私の事は心配しないで、あなたたちの家庭と国と世界のために祈りなさい」と言い残して自ら警察に出頭されたそうです。
たくさんの報道陣に囲まれカメラフラッシュを浴びマイクを突き付けられましたが、「こんな雨の中、皆さんご苦労様です」と、周りの人達をねぎらう姿もありました。
この様な韓氏に対する試練も、イエスの十字架と同じ原理に立っているように見えます。
宗教の歴史の中で、なぜ真理を叫び悪を根絶しようとする宗教は打たれるのでしょうか。
それは、神様と強い絆を持ち、神の願いを知っているからこそ、神があえて迫害を許される からです。神様と情が近く、神様の願いを担える存在だから です。
家庭連合が受ける迫害と試練は、信徒を苦しめるためではありません。
神が黙認される十字架の道は、信徒自身の不足さを悔い改めさせるとともに、日本の国民と世界人類を悔い改めさせ、真の信仰と愛に目覚めさせるためでもあります。
なぜなら神は人類の親であるから、すべての人を許し愛で包んでいるからです。
迫害は誇りであり感謝
歴史の中でキリシタン弾圧により殉教した日本の「二十六聖人」の中には、二人の子供がいました。多くの殉教者たちは、誰をも怨むことなく感謝の心で殉教されたと言います。
なぜなら、迫害する人を怨み泣き叫べば、人類の親である神様がもっと苦しまれることを知っていたからです。
神様が宗教を打たせ、困難を黙認されるのは、本人の成長や救いのためだけではなく、打った人達をも悔い改めさせる神の大きな目的があるのです。
絆の強い一番愛する信仰者たちを、打たせることは、どれほど神様は辛いでしょうか?
日本と韓国の家庭連合もまた、今まさに「打たれる道」を歩んでいます。
しかしそれは罰ではなく、恥でもなく、絶望の涙ではありません。
信仰者としての悔い改めの涙であり、誇りであり、感謝の道 なのです。
孫と花瓶の例えのように、悪さをした子を叱るのではなく、一番親の心を理解できる子を叱る親の心。その心を悟るとき、私たちは神様の深い愛と言い知れない痛みを理解できるのではないでしょうか。
迫害のただ中で「怨まず、恐れず、感謝をもって歩む姿」こそが、神様の涙を慰め、人類全体を悔い改めへと導く力になります。
ゆえに今こそ、私たちは悔い改めと祈りの精誠を束ね、堂々と胸を張り、世界の信仰者と連帯し、迫害に屈せず「愛と許しと真理の証人(あかしびと)」として生きる時なのです。
宗教弾圧の現実と信仰者の使命
世界の歴史を振り返れば、真理を掲げる信仰共同体は常に試練を受けてきました。
ウイグルのムスリムは中国で監視と再教育の名のもとに信仰を縛られ、ロシアではエホバの証人が国家によって「過激派」とされ、礼拝すら罪とされています。
イランではバハイ教徒が職業や教育の自由を奪われ、アフガニスタンではハザーラ族の信徒が命を狙われ、モザンビークではキリスト者が武装勢力に虐殺されています。
これらは単なる歴史の記録ではなく、今この時代にも信仰者が担う現実の苦難です。
迫害について聖書や仏典、名言に次のように語っています。
・「迫害は信仰者を鍛え、純粋な信仰の炎をさらに燃え上がらせます。」
・「金は火によって精錬され、信仰は試練によって清められる」
・「義のために迫害される者は幸いである、天国はその人のものだから。」
・「宗教は、先に打たれ奪われる。しかし、その痛みが深いほど、信仰の根は地に深く伸び、誰にも倒されぬ幹となる。」
・「真理は叩かれ、嘲られ、迫害される。しかし、倒れるのは虚偽であって、真理そのものは決して倒れない。」
・「信仰は守られることで強くなるのではない。試され、奪われ、打たれることで真に不壊のものとなる。」
・「信仰とは、外から奪われるものではなく、内から輝き出るものです。」
・「十字架の道は絶望ではなく復活の道です。」
