トンボ飛べなくなるまで飛べ!~精一杯生きる~

塩沼亮潤大阿闍梨

仙台にある慈眼寺に伺ったとき、たくさんのトンボが、境内に飛んでいました。
人懐っこく近寄ってきて「よくいらっしゃいました」と挨拶しているようでした。

慈眼寺のご住職、塩沼亮潤大阿闍梨さんが、
次のような種田山頭火の詩を教えてくださいました。

<写真は俳人の種田山頭火>

「トンボが はかなく飛んできて、身の回りを飛び回る。
飛べる間は飛べやがて飛べなくなるだろう」

山頭火の詩や俳句には、トンボなど虫の詩が多く、わびしさとか寂しさを感じさせます。
しかし、孤独であっても、何にもとらわれず自然を友とし、

その中で懺悔しながら精一杯生きようとする姿勢も感じられます。

なぜこのような俳句を詠ったのか、彼の生い立ちを知って心が痛みました。

9歳の時に母を自死で失い、自営の酒屋が倒産し、父が行方不明。
弟も自死で亡くし、離婚させられ、自らも自殺未遂を何度もする。
天涯孤独で酒におぼれる日常、関東大震災を体験し、43歳で得度し、

母のお位牌を抱き自然を友とし行乞流転の人生を歩んだ山頭火。

 行乞流転(ぎょうこつるてん) 行乞とは僧侶が家々の前で食を求めながら修行すること。

家族愛を感じることなく、生涯孤独に過ごした山頭火。
どれほど寂しく、辛い思いを抱えていたことでしょう。
そのため、彼は自然の中で出会うどんな小さな生き物にも目を向け、

自分自身を重ね合わせたのかもしれません。

「つかれた脚へとんぼとまつた」「笠にとんぼをとまらせてあるく」と,
詠む山頭火の句には、虫たちを友とする愛情が感じられます。

「分け入つても分け入つても青い山」の句には、辛くともこれが人生という修行、
希望を忘れずに生きようとする決意が感じられます。

「うどん供へてわたくしもいただきまする」という句からは、
最愛の母にうどんをお供えて共に食べたという温かな場面が目に浮かびます。

「死ねない手がふる鈴をふる」「あるがまま雑草として芽を吹く」には、
彼が苦境の中でも強く生きようとする希望の光が見え隠れしています。

そして、亡くなる5日前(10月6日)に山頭火が日記に綴った最後の詩は・・・
「トンボが はかなく飛んできて、身の回りを飛び回る。飛べる間は飛べ。

やがて飛べなくなるだろう」
彼自身がトンボに自分の姿を重ねていたのでしょう。

また、亡くなる9日前、お餅を加えた白い犬が山頭火の後をついてきて、
彼はその犬からお餅をいただき、粥にして食べ、残りを猫に食べさせたと
日記に記しています。
最後の布施がこの白い犬からであったことに、涙がこぼれます。

10月にトンボが飛ぶことは不思議に思えますが、トンボや白い犬は、
山頭火に対する神様からの贈り物だったのではないかと思えてなりません。


自然という神様の懐に抱かれた孤独な行乞流転の人生も、山頭火にとっては精一杯生き抜いた幸せなものであったのだと思います。

<慈眼寺のトンボ>

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