「なんてひどい人だ!」「罰を受けて当然だ!」と・・・
私たちはつい、誰かが過ちを犯すと責めてしまがちです。
悪いことをしたのだから、叱られ、裁かれ、罰せられる――それが「正義」だと思っています。
けれど、そんな私たちの “正しさ” とはまるで違う方法で、罪人の心を動かした、
50年前、北海道の片田舎で起こった感動的な実話――水上政吉さんの『ドロボウどの』を紹介します。
昭和44年の秋、私は北海道の小さな学校の校長をしていました。
公務のため30キロ離れた市庁へ出かけた、その帰り道。
暗い山道の道路わきに、油まみれになって40位の男がバイクを修理していた。
「どうしたんだね!?」
「・・・・動かなくなったんだ!」
「えらく汚れたね~」
「・・・・どうしらいいかわからねぇんだ」
「グズグズしてると暗くなるよ」
人も通らない山道だ。困っている人があれば黙っておけない。
「私の所においで、家はすぐそこだから」と誘うとすぐに応じた。
「家で風呂にでも入ってすっきりして、あとで車で送ってやるから」と、
この無口な男を家に連れて帰った。
バイクの油でズボンも手も真黒な男を真っ先に風呂に入れ、
その間に酒も用意して待った。
男はすっかり綺麗になった。
弾んだ会話もなくお銚子も3本目に入って、
酒を勧めているこちらの方が酔ってしまった。
そこへ
「校長先生! 校長先生ンとこに泥棒おらんけ?」と
隣の集落の紺野さんが飛び込んできた。
中を見るなり
「そいつだよ!そいつがうちのバイク盗ったんだ!」
「え~!? あんた、あのバイク自分のでないのか?」
「・・・・」
「黙ってないで、何とか言えよ、いまなら堪忍するからさ!」
「・・・・」
「あんた盗んだのか? したら泥棒やないかい!」
男は押し黙って一言も言わない。
時間が経つうちに騒ぎを聞きつけて、近くの人が集まってきた。
「こんな図々しいの、駐在さんに電話したらいいんだ!」
気の早い人が駐在所に電話した。
しばらくして、みんな表に飛び出して駐在さんを出迎えた。
さて、駐在さんを家の中に通すと、どうしたことか無口男の姿がない。
勝手口から逃げたらしい。
外はすっかり暗くなっていた。
「後追いしない方がいい、刃物でも持ってるかもしれんからね」と
駐在さんは言って帰って行った。
その翌日のことである。
母親に連れられて、昨夜の無口男が神妙な顔して、
その後ろに小さくなっていた。
手土産を持ってタクシーでやってきたのである。
話によると、あれから真っ暗な山道をトボトボ歩いていると
車が来て止まった。
あの駐在さんの車で、駐在さんは住所を聞くと、
釧路の住宅まで送ってくれたという。
その車の中で、優しい駐在さんの話に男はすっかり感激して、
昨夜のお詫びに来たというわけであった。
駐在さんが犯人を自宅まで送ったという話など聞いたことがない。
けれど、人の罪をあばくだけでなく、温かい心で罪を許し、
更生の道を歩ませた駐在さんの力は本当に立派だと思った。
人間は誰でも弱さを持ち、過ちを犯します。
私たちは、そうした人に向かって正義を振りかざし、裁き責めたてます。
でもこのお話は、それとはまったく違うアプローチで、人の心を動かしました。
助けて迎え入れ、風呂に入れ、酒を注いだ校長先生。
逃げた犯人を、裁くことなく家まで送り届けた駐在さん。
そのような “愛と許し” こそ、人を本当に変える力なのかもしれません。
どのような人にでも、必ず良心があります。
相手に心から信頼され、愛され許され、人として扱われると、不正な事は出来ないものです。人の美しい心情に呼びかけ、信じて見守る姿勢が、いつの時代でも変わりなく大切なのではないかと思います。
正しさではなく、愛と優しさで。
裁きではなく、許しと信頼で。
50年も前の話だけれど、今でもきっと、私たちの身の回りには、
こんなふうに信じ、愛し、許し、見守ってくれる人が、たくさんいます。
私もそういう一人でありたいと、心から願います。

