真の親心とは?――あなたも一緒に困難な道を行きませんか?

すべてに感謝して

真の親心とは?

「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがあります。

親であれば、できることなら子供には苦労をさせたくないものです。

人生に「楽な道」「困難な道」があるとするなら、
危険を避け、なるべく平坦な道を歩ませてあげたい。
それが親心というものでしょう。

しかし、本当の親心とは、ただ子供を守り、苦労を取り除いてあげることだけなのでしょうか。

時には、わが子の成長と使命を信じて、あえて困難な道へ送り出す――。

そこにも、深い親心があるように思うのです。

困難な使命へ送り出した親心

日本に統一原理を伝えるため、1958年。
文鮮明師チェ・ボンチュン宣教師(日本名・西川勝)を韓国から日本へ送り出しました。

当時、正規の方法で日本へ渡ることは難しく、密航という危険な方法でした。
二度失敗し、三度目にようやくチェ宣教師は日本にたどり着きます。

しかし、そこで待っていたのは安住の生活ではありませんでした。

収容所に収監され、そこから脱出し、さまざまな苦労を重ねながら東京で開拓伝道を始めます。
それが、後の日本の世界平和統一家庭連合へとつながっていきました。

大切な弟子を危険な道へ送り出すことは、どれほどつらかったことでしょう。

「君は日本の為に、死を覚悟していかねばならない」
「君が無事に日本に到着するまで私は寝ないで祈り続けよう」

送り出す側にも、送り出される側にも、人知れず並々ならぬ覚悟があったはずです。

その二人の覚悟と祈りがあったからこそ、その信仰を受け継いだ今の日本の家庭連合があり、
「今の私」がいるのだと思うと、胸が熱くなります。

「行ってほしくない」――それでも送り出す親の愛

1300年の歴史をもつ大峯山の修験道。
その中でも極めて厳しい修行とされる千日回峰行や四無行の史上二人目の満行者、
塩沼亮潤大阿闍梨をご存じかと思います。

その塩沼亮潤大阿闍梨と、師である五條順教大阿闍梨との師弟関係の中にも、
私は「真の親心」を感じるお話を伺いました。

塩沼大阿闍梨が精神的にも肉体的にも極限状況を9年間歩む千日回峰行を志したとき、
師は一度は認めながらも、その厳しさを知るがゆえに、
思いとどまってほしいと願われたといいます。

それでも最後には、愛弟子の決意を受け入れ、過酷な難行へと送り出されたのです。

さらに、塩沼大阿闍梨が9年間に及ぶ千日回峰行・四無行を満行の末、
家族が待つ仙台へ戻りたいと願い出たときも、
師匠の心の内には吉野山金峯山寺に残り、後継者になってほしい思いがあったようです。
しかし、最後にはその志を尊重し、涙で仙台へ送り出されたのです。

「そばにいてほしい」
「危険な目に遭わせたくない」
「苦労の道を行かせたくない」

そう思いながらも、本人の人生を信じて手を離す。
それもまた、深い親心なのだと思います。

「帰ってくる場所はないと思いなさい」

また、時はさかのぼり、塩沼大阿闍梨が得度のため奈良へ出発する朝。
お母様は朝食後に、亮潤様が使っていた茶碗と箸をゴミ箱に捨てて、

「お前の帰ってくる居場所はないと思いなさい」とおっしゃったそうです。

一見すると、とても厳しい言葉です。

しかし、その言葉の奥には、
「途中で投げ出して帰ってくるのではなく、自分の決めた道を最後まで歩きなさい」

過酷な世界に出発しようとする息子に向かって、
母としての祈りと覚悟があったのではないでしょうか。

さらに、子供に覚悟を求めると同時に、
母自身もまた、愛する我が子を手放す覚悟を決めた瞬間だったのではないかと思います。

守るだけが親心ではない

親の懐に抱き、雨風から守ってあげることも、もちろん大切な親心です。

けれど、子供が成長するためには、いつか親の手を離れ、自分の足で歩かなければなりません。

転ぶかもしれない。
傷つくかもしれない。
失敗するかもしれない。

たとえそうあっても、その子の可能性と成長を信じて腹をくくって送り出す。

昔から、「獅子の子落とし」という言葉があります。

獅子の親は、わが子をあえて険しい崖から突き落とし、自力で這い上がってくる子に育てる――
という逸話です。

「わが子を本当に強く育てるためには、時にはあえて厳しい試練に立ち向かわせることも愛である」
という親心を表したたとえとして、昔から語り継がれてきた言葉です。

「かわいい子には旅をさせよ」ということわざにも、
どこか通じるものがあるのではないでしょうか。

親が子供に苦労を与えること自体が愛なのではありません。
苦労を避けさせることも愛なのでもありません。

その子には困難を乗り越える力があると信じ、必要な時には手を離し、
背後から祈りながら見守る。

私は、そこに「真の親心」の一つの姿を見るのです。

親の心を知ることが「孝情」につながる

そして、送り出された子供の側が、その親心を理解したとき、
今度は「孝情の心」「侍る心」が生まれるのだと思います。

「侍る心」とは、ただ親の言うことに従うということではありません。

親の願いと心情を理解し、その思いを大切に受け止め、
感謝をもって共に歩もうとする心です。


どんなに困難な道を行かなければならない時にも、
自分の背後には、祈りながら涙で送り出してくれた人がいる

そう思えたなら、困難な景色も少し違って見えるのかもしれません。

親が願うから仕方なく嫌々歩む道ではありません。
親の愛を知ったからこそ、その願いに応えたい。
そして苦しい時にも、
「この道を歩ませていただいていることに感謝しよう」と思える心です。

チェ宣教師が幾多の困難を乗り越えて日本に信仰の種を蒔くことができたのも、
塩沼亮潤大阿闍梨が過酷な修行を満行することができたのも、
その背後には、送り出してくださった方の深い親の愛があったからだと思います。

その親心を受け止め、感謝し、その願いに応えようと歩み続けたお二人の中にも、
「孝情」と「侍る心」があったからではないでしょうか。

送り出す人の覚悟と、送り出された人の覚悟。
その二つの心が一つになったとき、困難な道の先に、
新しい希望の道が開かれていったのだと思います。

だから私は、あえて大切な人には言いたいと思います。

「あなたも困難な道を行きませんか」ではなく、
「あなたも、一緒に困難な道を行きませんか」

一人なら苦しい道でも、共に歩く人がいるなら前へ進めます。
重い荷物も、分け合って持てばいいのです。

送り出してくれた親の愛を胸に、支えてくれる人への感謝を忘れずに。

楽な道を選ぶのではなく、その先に大切なものがあると信じるなら――。

私も、あなたと一緒に、その道を歩いていきたいと思います。



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