悲劇の歴史「ゴレ島」

文鮮明、韓鶴子御夫妻
アフリカ大陸の西端、セネガルの首都ダカールの沖合約3キロ
紺碧の大西洋に浮かぶ美しい小さな島、ゴレ島
 
この島は、かつて奴隷貿易の拠点だったという歴史があり、
その理由から1978年にユネスコの世界遺産にも登録されています。
 
15~19世紀に多くの奴隷がこの島に集められ、
新大陸へ“輸出”されて行った悲しい歴史があります。
 
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ゴレ島に関する資料から下記に抜粋しました。
ゴレ島2 
(ゴレ島)     
帰らざる扉3                                           (帰らざる扉)*その海の向こうがアメリカ大陸
 
16世紀、新大陸を征服したヨーロッパ人たちは、
現地(アメリカや南米など)でヨーロッパ市場向けの
広大な農場経営に乗り出しました。
当初、農場では労働力として
現地のインディオを使っていましたが、
インディオたちは疫病や、
虐殺により激減してしまいます。  

そこで彼らは、アフリカから黒人たちを連れてこようと考えます、
16世紀中頃からはじまる「三角貿易」です。 

ヨーロッパ産の綿布や酒、鉄砲などを、
アフリカ西海岸へ運び黒人奴隷と交換します。
次に、黒人奴隷をアメリカ大陸へと運び、
今度は奴隷たちを砂糖や綿花、
タバコの原材料と交換します。
  
そして、それらをヨーロッパへ運び、
商品にして世界中に売るのです。
この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な利益を得ます。

西アフリカ各地から連行された黒人たちは、
この島に集められ、   
「Door  Of  No Return(帰えらざる扉)」
から船に乗せられ、アメリカ大陸へと送り出されました。
その数2000万人を超えると言われています。
 
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『奴隷たちの航海は凄惨きわまるものだった。
「西海岸から新大陸までは、ほぼ40日~70日の航海、
悪天候が続けば100日を越えた。
これは「三角貿易」の第二辺をなしており、
「中間航路」と呼ばれた。
「中間航路」こそは人類史上例を見ない、
凄惨きわまる奴隷航海であった。
航海中の死亡率は8%~25%、
船上の捕虜6人のうち1人が死んだと言われる。  
奴隷船の大きさは100~200トンで、
船に積み込まれる前には男女とも頭を剃られ、
所有主か会社のブランド名が身体に焼き付けられた。
足首に鎖を付けられ、
全裸で船のトン当たり1~2名が、
船倉にぎっしりと詰め込まれた。       
食事は朝夕の2回、少量の水がときどき与えられ、
一日に2回程度は甲板に出て外気を吸うことが許された。
船内は不潔そのもので、汚物と臭気が充満し、
マラリア、天然痘、赤痢などの病気が襲うこともあった。 
そんな場合、死者だけでなく、病気にかかった者までが
生きたまま海に投げ捨てられたために、
奴隷船の後をサメの大群が追いかけたという。』

新書アフリカ史 宮本正興+松田素二編
講談社現代新書より抜粋
  

2018年1月19日。
人類の涙をぬぐう平和の母と呼ばれる
韓鶴子総裁この島を訪れ、
たくさんの宗教指導者と共に
「アフリカ解放解怨式」を挙行しました。
 
この日、2,000万以上の黒人奴隷たちの
悲しい怨みの霊が解放されたのです。
 
集まてきた群衆の中から
「Sank you Mother!  Sank you Mother!」
という叫び声が上がったそうです。
涙の祈祷  解怨式
(涙の祈祷)              (解怨式)
                     
それについて、自叙伝 『人類の涙をぬぐう平和の母』326頁に
次のように書かれています。          

『キリスト教宣教の名のもとに、
ヨーロッパからアフリカに来た宣教師の中には
本質を見失い自国の利益だけを考える人もいました。
彼らはアフリカを植民地にしながら、教育を施すこともせず、
天が与えた天然資源を奪い取ることばかりに忙しくしたのです。
その上、肌の色が違うといって、アフリカの人々を人間扱いせず、
奴隷にしました。

そのような行動をキリスト教宣教の名のもとに取ったという事実は、
真の母として非常に心痛いことです。

ですから私は、ずっと前から、
ゴレ島を訪ね、そこを通過していった
アフリカの若者たちの怨恨を解かなければならないと考えていました。』

 
12257ー2
自叙伝 『人類の涙をぬぐう平和の母』

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