忘れられない光景

ある日の出来事
忘れることができない光景がある。
中央線の信濃町駅のホーム。 
私が、インターン生としてK大学病院の臨床検査室に
通っていた、だいぶ昔のことである。
 
朝の身動きが取れない通勤電車に押し込まれ、 
帰りはクレゾールの臭いがする(昔はそうだった) 疲れた身体を
ドアに持たれて
港区のアパートから病院まで1年間往復した。 
 
その当時は、学校と病院を行き来しながら、
現場の検査室において1年間の実習が必要であった。
患者さんや患者さんの大事な検体を扱う命にもかかわる仕事は、 
絶対にミスが許されない。 
 
慣れない仕事と人間関係、 
若いというより不足な私には大きなプレッシャーがあった。 
 
叱られて帰る時、 
信濃町駅のホームのベンチに座ったまま立つことができない 
涙で何本も電車を見送った。 
 
初冬の日が落ちるのは早い、
もう辺りはうす暗くなって、肌寒い風が通り過ぎていく。
そんな時、忘れられない光景を目にした。 
 
私が座っている少し離れた向こうのベンチに、
一組の親子連れが座っていた。 
若い夫婦と3歳くらいの可愛らしい女の子が
楽しそうに話しをしていた。 
 
しばらくすると、
お母さんがバックから一個のリンゴ を取り出して、
お父さんに渡した。 
受け取ったリンゴをお父さんはズボンの脇でこすって、
子供に手渡した。 
子供が小さな口でリンゴにかじりついた。 
 
そして次にお父さんが一口食べ、
また子供が一口、そして次はお母さんが一口。
 一つのリンゴを三人で楽しそうに分け合って食べている。 
 
そのシーンは、私が今いる世界ではなく、
そこだけがスポットライトが当たった、
温かくて美しい幸せな世界であった。 
 
私はなぜか泣けてしまった。
その涙の理由が何だかわからないが、
こぼれ落ちる涙を拭いて立ち上がった。 
 
「明日も頑張らなくちゃ!」
 
************ 
 
今ではほとんど通ることのない中央線信濃町の駅 
電車に乗ってその駅を通過するとき、この光景が蘇ってくる。
 
思わず電車の窓からホームに目を落として、 
この親子と自分の姿を探してしまう。

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