この世で差し上げる最後の御挨拶です。
天上でお目にかかります。
どうかいつまでもお元気でいてください。』
私はその場で凍りつきました。
おそらく、顔面蒼白だったと思います。
もはや涙すら出ず、石のように固まったまま、
しばらく立ち尽くしてしまいました。
私たち夫婦は、愛する彼らの記憶を、
涙と共に、胸の奥深くにしまい込みました。
誰にも話すことができないまま、
胸がつぶれそうになるほどの悲しみを抱え、
ただ心の中で、痛哭するしかありませんでした。
それは人類の真の父母として、避けて通ることのできない道でした。
1958年、日本に初めて宣教師が渡り、
その翌年アメリカの開拓伝道が始まりました。
1965年、文総裁は海外宣教を本格化させるため、
ヨーロッパ、中東、南米へと宣教師を派遣されていきました。
しかし、彼らを取り巻く環境は厳しいものでした。
統一教会の「原理」のみ言が、世界に広がった70年代は、
あらゆる国が口裏を合わせたかのように、
総力を傾けて私たちに反対してきました。
世界各地で耐え難い弾圧が行われるようになりました。
それでも、任地に出発する宣教師は、
当面必要となるお金を用意できた人から、
古びたトランクに衣類と『原理講論』一冊を入れて発つのです。
1973年、チェコスロバキアで、
宣教師と信徒約30名が警察に逮捕され、
5年から10年の懲役刑や死刑宣告を受ける
言葉で言い尽くせない弾圧が行われました。
24歳のマリア・ジブナは獄中の中で命を落とし
共産主義地下における、最初の殉教者となりました。
弾圧は、80年代に入っても留まることなく、
1980年、タンザニアに入った笹本正樹宣教師が
その年の12月銃で撃たれて殉教しました。
特に共産圏の国々では「バタフライ作戦」のなのもと、
宣教師たちが、地下で命がけの活動をしていました。
ある宣教師の言葉があります。
『いつどこで、いかなる危険に直面するか、私にはわかりません。
ただ、神様が啓示を通して直接、
私の人生を主管されていることがわかります。
危険が迫れば、夢に神様が現れ、私の行く道を示してくださるのです』
『人類の涙をぬぐう平和の母』(韓鶴子著)140P~より抜粋
休むことなくアフリカと世界各国を過激に歩まれる
韓鶴子総裁(平和の母、真の母)の願いを受けて、
タンザニア6万人の『祝福フェスティバル」に
日本と韓国の宣教師38名で参加しました。
まず最初に、タンザニアにて殉教された
笹本正樹宣教師のお墓詣りからスタートしました。
白く美しい立派なお墓は、タンザニア国家が作ってくださったもので、
毎月、国と現地の家庭連合のメンバーが、丁寧に供養をしてくださっていました。