なぜ本当に強い人は「怨讐」を愛せるのか――試練が育てる「体恤」の力

信仰

試練から得られる心の共鳴

人生には、どうしても避けられない試練があります。

病気、挫折、裏切り、誤解、孤独――。
できることなら経験したくないものばかりです。

しかし、その苦しみは決して無意味ではないと思います。

宗教には「体恤(たいじゅつ)」という言葉があります。

一般的には「相手の立場に立って思いやること」と理解されます。

宗教的にはさらに深い意味があります。
それは、相手の苦しみや事情を、自分自身のこととして体験し、
その心を理解し、愛することです。

単なる同情ではありません。

自らも同じ涙を流した人だからこそ生まれる、深い心の共感であり共鳴です。

苦難の中で実践された「怨讐を愛する」心

イエス・キリスト、文鮮明師、韓鶴子総裁には、一つの共通点があります。

それは、多くの誤解や誹謗中傷、迫害を受けながらも、自分を苦しめた人々を憎みませんでした。
怨讐(おんしゅう)を愛する」という真の愛を実践されたことです。

「怨讐」とは、単なる「嫌いな人」ではありません。
誹謗中傷し迫害し、心身に大きな痛みや傷を与える相手。
すなわち「敵」とも言える存在です。

そのような相手に対しても、憎しみで応えるのではなく、
赦し、愛そうとすることが「怨讐を愛する」という教えです。

復讐や仕返し仇討ちではありません。
悪に悪で応じるのではなく、愛によって憎しみの連鎖を断ち切ろうとする、
人間にとって最も高貴な愛の実践です。

イエス・キリストは十字架の上で、反対する民衆を赦し”とりなし”の祈りをされました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と。

文鮮明師も、六回の投獄や拷問、数え切れない迫害を受けました。
しかしその中でも決して迫害する者を憎みませんでした。
「怨讐を愛しなさい」という教えを生涯貫いて実践されました。

韓鶴子総裁も、長年、文鮮明師と共に誹謗中傷や迫害の中を歩んできました。
今現在も83歳にして、拘留という厳しい試練の中にいます。
しかし、人々への恨みや報復を語ることはありません。
「愛しなさい、赦しなさい、感謝して、一つになりなさい」と語り続けています。

その姿は弟子たちの重荷や罪を自ら背負い、矢面に立って歩まれているようにも映ります。
さらに人類の罪までも背負って赦し、母の愛で包み込んで責任を果たそうとしています。

「私は命の尽きる日まで、どこにいても未来の子孫のために、戦争も対立もない、
美しい地上天国が広がる世界になることができるよう祈り祝福してまいります」と。

なぜ「怨讐」を愛することができたのか

では、なぜ三人は、人間にとって最も難しい「怨讐を愛する」という生き方を貫いたのでしょうか。

それは、人間の弱さを誰よりも深く理解していたからだと思います。

人は本来、悪として生まれた存在ではありません。
無知ゆえに誤った判断をしてしまう弱さや堕落性を抱えています。

イエス様と文鮮明師は、そのような堕落による人間の悲しい現実を知っておられました。
韓鶴子総裁も、その弱さや事情を自らの罪として受け止めました。

だからこそ、相手を憐れみ、赦し、なおも愛するという責任を果たしてきたのです。

そこに「体恤」の心があります。

この同じ精神は、マハトマ・ガンジー非暴力運動や、
27年間の獄中生活を経ても復讐でなく和解を選んだ、ネルソン・マンデラの生涯に見ることができます。

体恤は苦難を通して受け継がれる

イエス様の弟子たちは、復活を信じただけで変わったのではありません。

イエス様と同じ迫害を受け、命を懸けて福音を伝え苦難の道を歩む経験の中で、
初めてイエス様の心情を深く体恤しました。

その体恤が弟子から弟子へと受け継がれ、ローマ帝国の迫害をも超えました。
やがて世界中に伝播し、キリスト教文明という新しい歴史を築いていきました。

日本もまた、仏教やキリスト教をはじめ、多くの宗教が、
弾圧や迫害、殉教の歴史を経験しました。
試練を体恤し、志を受け継いだ人々が、信仰や精神文化を今日まで受け継いできました。

信仰も、理念も、愛も、頭で理解しただけでは本当に受け継ぐことはできません。

同じ苦しみを経験し、その心情を体恤したとき、
命あるものとして次の世代へ受け継がれていくのだと思います。

私たちの試練にも意味がある

私たちもまた、人生の中で様々な試練に出会います。

人として最も成長するのは、順風満帆な時ではなく、
苦難を乗り越えようと涙する時ではないでしょうか。

涙を知る人は、人の涙をぬぐうことができます。
孤独を知る人は、孤独な人を慰めることができます。
痛みを知る人は、人の痛みに寄り添うことができます。
失敗を経験した人は、人を裁くよりも励ますことができます。

これこそが「体恤」です。

日本にも、この精神を生涯貫いた宗教者がいました。

大本教出口王仁三郎です。

王仁三郎は二度にわたる大本事件で教団が激しい弾圧を受け、自らも投獄されました。
しかし、その後も報復や憎みなく、人類の和解と世界平和を訴え続けました。

歴史を振り返ると、真に世界の平和を願った人々には共通点があります。

それは、苦難の中で人を憎まず、人間の弱さを理解し、赦し、愛し続けたことです。

試練は人を成長させ希望と幸福の種となる

その試練を通して生まれた「体恤」の心こそが、
人から人へと受け継がれ、新しい希望を生み出し、
やがて新たな文明や平和を築く力となるのではないでしょうか。

私たちも人生の中で、困難や迫害、誤解や試練に直面することがあります。

家庭連合は今、その試練の真っただ中にいます。
信じがたい理不尽と苦痛の中におります。

そのような時こそ、
「この経験を通して真のお母様の痛みを理解できる人になれる」と受け止めることができたなら、
その試練が共鳴になり体恤になります。

もちろん、苦しみそのものを喜ぶことは簡単ではありません。
しかし、その苦しみの中にも天の導きと成長の意味を見いだし、感謝をもって受け止めるとき、
私たちの心は少しずつ成長し天の願いへと近づいていくのではないでしょうか。

だからこそ、どのような困難や迫害、試練があったとしても、
感謝を忘れず、何度でも立ち上がり、希望を抱いて喜びをもって前へ進んでいきたいと思います。

その一歩一歩が、自分自身を成長させるだけでなく、誰かを励まし、支え、
未来へと希望をつないでいく力になると信じています。


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