教会を失うという試練の中で試される強い信仰と希望――家庭連合解散

宗教(家庭連合・仏教・キリスト教他)

その日、教会の扉が閉じられました。
鍵は清算人に渡たり、祈りの場所は突然失われたのです。

その場にいた多くの信者が涙を流しました。

しかし、その中で誰かがこう言いました。

「それでも感謝します!」

清算人たちは、帰りにお礼を言って帰ったそうです。

なぜ家庭連合の人達は、こんな状況で感謝できるのでしょうか。
試練の中でも希望を失わないのでしょうか。

宗教団体を国家が解散させる

3月4日、ついに世界平和統一家庭連合に対する解散命令が出されました。
国内外でも大きなニュースとして受け止められています。

高裁が「解散命令」を判決した直後、
裁判所が選んだ清算人が全国280か所の教会に一斉に入りました。

教団の財産などを処分する「清算手続き」が始まったのです。

教会内部を隅々まで調べ、多くの資料とパソコンを持って行きました。
そして教会の扉は施錠られ、その鍵も押収されたのです。

解散命令は、法人格を失うだけではありません。
祈りの場所である教会と財産を失うことでもあります。

教会の鍵を清算人に渡した瞬間、
その場に居合わせた多くの人が涙を流しました。


ところが・・・
今回の高等裁判所の判決には、いくつかの問題点があると指摘されています。
宗教団体を国家が解散させる――
それは民主主義社会において極めて重い判断です。

世界平和統一家庭連合の解散裁判は、
単なる一宗教団体の問題ではありません。

そのような不条理の中で、
信仰とは何か。
人は試練の中でどう生きるのか。

なぜ信仰者は、試練の中でも希望を失わないのか。
という問いを投げかけています。

この問いは、
実は宗教の長い歴史と深く関係しています。


宗教の歴史は試練の歴史でもある

宗教の歴史を振り返ると、宗教はしばしば迫害を受けてきました。

キリスト教の歴史を見れば、その象徴は
イエス・キリスト十字架です。

人々に愛と赦しを説いたイエスは、
政治と宗教の対立の中で十字架にかけられました。

日本でも同じことがありました。
江戸時代のキリシタン弾圧です。

多くの信徒が捕らえられ、拷問を受け、命を奪われました。
それでも信仰を捨てなかった人々がいました。

長崎の隠れキリシタンたちは、
250年以上も密かに祈りを守り続けました。

歴史を見れば、
信仰は試練の中でこそ深くなる
という事実が浮かび上がります。


迫害の中でも語られ続けた「愛と許し」

世界平和統一家庭連合の創始者である
文鮮明総裁は、生涯を通して数多くの迫害と誤解の中を歩んできました。

若い頃には共産政権下で投獄され、
命の危険にさらされたこともありました。
その後も宗教的偏見や政治的対立の中で、
多くの批判と攻撃を受け続けました。

それでも総裁は、常にこう語り続けました。

「許せ、愛せ、団結せよ!」

憎しみには憎しみで応じない。
迫害には復讐ではなく愛で応える。

その信仰の道は、現在
韓鶴子総裁に受け継がれています。

しかし今、韓総裁は韓国のソウル拘置所で拘束され、
すでに170日が経っています。

政治的対立や捏造を疑う声もある中、
多くの信徒は深い憂慮の中で祈り続けています。

そして、創始者ご夫妻が語ってきた言葉を胸に秘めています。

憎しみではなく赦しを。分断ではなく愛を。対立ではなく和解を」
「許しなさい。愛しなさい。一つになりなさい。」

それが、信仰者が選ぶ道なのです。


聖書が語る「試練の信仰」

聖書の中で、試練の信仰を象徴する人物がいます。
それはヨブです。

旧約聖書のヨブ記に登場するヨブは、正しい人でした。
しかし突然、財産を失い、子どもを失い、健康までも失いました。

それでもヨブはこう言いました。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
与えるのも神であるなら取られるのも神であると信仰的にとらえました。

また聖書はこう語ります。

「神を愛する人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださる。」
(ローマ人への手紙 8章28節)

目に見える困難でさえも、
最終的には神の計画の中で意味を持つ
というのです。


真実は必ず明らかになる

イエスはこう語りました。

「隠されているもので現れないものはなく、
秘められているもので知られないものはない。」
(ルカによる福音書 8:17)

「わたしがしていることは、今あなたには分からないが、
後で分かるようになる。」
(ヨハネによる福音書 13:7)

「義のために迫害される者は幸いである。
天の国はその人たちのものである。」
(マタイによる福音書 5:10〜12)

人生の出来事は、その瞬間には理解できないことが多いものです。
迫害は敗北ではありません。
真実は時が来れば必ず明らかになります。


感謝は信仰の最も深い姿

人生には三つの感謝があると言われます。

「良いことへの感謝」
「当たり前の事への感謝」
困難や苦痛への感謝

歴史を見れば、信仰者たちは
いつもこの三っに感謝してきました。

最も難しい、十字架の前でも、迫害の中でも、弾圧の中でも、
「それでも感謝します!」と。

なぜなら、人間の目には悲劇に見えても、
天のなされることには意味があると信じているからです。


エピソード:隠れキリシタンの祈り

江戸時代、日本ではキリスト教が禁じられました。
多くの信徒が捕らえられ、拷問や処刑を受けました。

しかし、それでも信仰を守り続けた人々がいました。
「隠れキリシタン」と呼ばれる人々です。

彼らは教会を持つこともできず、
聖書も、司祭もいませんでした。

それでも家の中で祈りを守り続けました。

そして約250年後、日本が開国したとき、
長崎の浦上で信徒たちは宣教師にこう言ったと伝えられています。

「私たちは同じ信仰を守ってきました。」

建物も制度もなくても、
信仰は人の心の中で生き続けたのです。

試練の先にある希望

歴史は何度も同じことを教えています。

迫害は、永遠ではありません。
信仰は消すことができません。

聖書はこう語ります。

「先のことを思い出すな。昔のことを考えるな。
私は荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる」
(イザヤ書43:18)

これは、神が新しい歴史を始められるという希望の言葉です。

人間の目には行き止まりのように見える出来事も、
神の目には新しい道の始まりであることがあります。

だから信仰者は、目の前の出来事だけで判断しません。

試練の中でも祈り続けます。

「許しなさい。愛しなさい。一つになりなさい」
憎しみではなく赦しを。分断ではなく愛を。対立ではなく和解を」

たとえ教会の扉が閉じられても、
信仰の扉まで閉じることは誰にもできないからです。


PVアクセスランキング にほんブログ村

タイトルとURLをコピーしました