崇高な人間愛で韓国の孤児を救済し、
韓国の為に生涯を尽くした日本人達がいます。
「オンマ(お母さん)」と呼ばれた望月カズさんと田内千鶴子さん。
そして、曽田嘉伊智さんは「韓国孤児の父」と呼ばれています。
戦後、彼らは反日感情がある韓国の地にて、
たくさんの韓国の孤児たちを救ったのです。
彼らの崇高な業績により、
彼らは、今でも忘られることなく韓国で尊敬されています。
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🌸望月カズ(旧姓:永松)
戦後、理髪師や売血をしながら孤児達を育て、
韓国孤児133人を養育した日本女性。
「38度線のマリア」「愛の理髪師」と呼ばれた。
1927年東京都杉並区に生まれる。
4歳で母と満州へ渡り、6歳の時に母を亡くし孤児となる。
農奴として転売され同地を放浪し続けた。
17歳のとき永松氏の養子となり、日本国籍を得た。
1945年の終戦に伴い日本へ帰国するが、
身寄りもない故に焦土と化した祖国に絶望し、
再度満州へ渡ろうとしたが、
北緯38度線を越えられずソウルに留まった。
朝鮮戦争が勃発し、
銃弾に倒れた女性に抱かれて血まみれの男の子を
助けたことをきっかけに、
孤児達を自分の腕一つで助けていくことを決意した。
戦争の終結に伴い、ソウル市内にバラックを建て、
肉体労働や露天で理髪業、時には売血をして孤児達を養育し続けた。
1963年に理髪師の資格を取得してからは、
「愛の理髪師」としてその名が知れ渡るようになった。
1964年にはソウル名誉市民賞を授与され、
1965年には手記『この子らを見捨てられない』がベストセラーとなり、
映画『愛は国境を越えて』(1965年)は日本でも大きな反響を呼んだ。
<映画『愛は国境を越えて』>
<演劇:オンマ>
1967年の光復節には第一回光復賞。
1971年には朴正煕大統領から韓国名誉勲章・冬柏賞が授与。
名誉勲章叙勲式のエピソードには、
大統領府に普段着に下駄履き姿で現れ、
靴だけでも履き替えるよう言われたが
「私は他に何も持っていません。これでだめなら帰ります」と拒否した。
望月さんは、自分の服や靴は買わず、
子供達の食費、進学費に充てていたのです。
彼女は卑屈な生き方を嫌い、
子供たちにも甘えは許しませんでした。
家の壁にダルマの絵を飾り、
「転んでもダルマのように立ち上がれ」と教えました。
生涯日本人としてのアイデンティティを守り続け、
反日感情の強かった当時の韓国においても、
普段から和服ともんぺ姿で通し、
端午の節句には遠慮なしにこいのぼりを立てたという。
自らを律し、子供達に尽くした望月さんの生き方は、
社会福祉に生きる後世の人々に大きな影響を与えた。
「死ぬときは母国の土の上で死にたい。
死んだら富士山の見える所に眠らせてください」と語り。
1983年、ソウルの自宅で56歳で亡くなった。
1985年には富士山を望む日本に分骨埋葬された。
YouTubeの動画はお借りしました。↓↓↓
参考:
・ウィキペディア
・ブログ『韓国なんでも広場』
・ウィキペディア
・ブログ『韓国なんでも広場』