当ブログで塩沼亮潤大阿闍梨を紹介しました。
大峯千日回峰行でたどり着いた境地~塩沼亮潤大阿闍梨~
「良寛さん」ならぬ「亮潤さん」とお呼びします。
亮潤さんのお人柄を知るほどに、背後にいらっしゃるお母様とお師匠様にも、
感心させられました。
お母様について語っている部分を抜粋しました。
子供のころは、いたって普通の子でした。
ただ、とても貧しい家庭に育ちまして、
母親からいつも言われていた言葉がありました。
「お前がどんなに偉くなっても、人の下から行きなさい。
みなさんにお仕えさせていただくという気持ちだけは忘れてはいけません」
ということでした。
「『実るほど頭を垂れる稲穂かな』ってわかるか? 」
「ううん、わかんない」
「人はどんなに偉くなっても謙虚に、人の下から行きなさい。わかったか」
「うん」
「絶対に目上の人に口答えをしてはいけませんよ」と言われていたので、
お坊さんの修行に入ってから理解できない、
納得できないことを言われたとしても、
とりあえず「頑張ります」と言って、
「理解できなから私はやりたくありません」
「納得できないのでしません」と、いう自分ではありませんでした。
そう思うと、ほかの修行僧よりも自分は幸せでした。
19歳の春、出家の日の朝食後に母は食器を全部投げ捨てました。
「おまえの帰ってくる場所はないと思いなさい。
千日という修行は大変な修行だと思う。
だから砂を噛むような苦しみをして頑張ってきなさい」
と言ってくれました。
(山中で、死ぬか生きるかの状態に陥ったとき、お母さんの言葉を思い出し)
その砂をかむような苦しみを自分はまだしたことがないと思って、
躊躇なく泥をなめてかみ合わせたら、
「ここでこんなことをしちゃいられない」と、
自分の99、消えかかった情熱がよみがえりました。
「たくさんの人にご恩返しをしないといけないし、
みなさんのお役に立てるようなお坊さんになろうという
大きな夢があるじゃないか」
と言うと、目に力が入り、むくっと立ち上がって、
持っていた水も全部投げ捨てて、
ただ山頂に向かって大声を上げて歩き、小走りになり、
やがて走っている自分がいました。
その時、初めて天に向かって暴言を吐きました。
「私に苦しみを与えるならば、もっと苦しみを与えてください。私は倒れません」
世間的には“大阿闍梨”という称号を得て仙台に帰るわけですから、
普通なら親は喜んで、少しばかりは自慢することもあると思うのですが、
私の親は私が帰る前に
「もうすぐ仙台に亮潤が帰ってきます。修行はしたものの単なる世間知らずです。
どうぞみなさん、亮潤をいじめ倒してください。
20年、30年、40年先を見越してぜひ鍛えてやってください」と、
私の知らないところでみんなにお願いしていました。
そんなことを知らずに仙台に帰った私は
「世間はつらい」と思いました。
けれども、もともとお師匠さんも、
「いいか、『行をして行を捨てよ』という言葉がある。
決して行を自慢することのないように」
と10代のころから教えてくれました。
また、仏教の世界でも「修行し抜くと悟る可能性がある。
万が一悟っても悟ったことさえ、修行したことさえ全部捨ててしまえ。
忘れてしまえ。とらわれるな」ということなのです。