安重根~獄中で感化された日本人たち~

愛天愛国愛人
安重根(アン・ジュングン)は伊藤博文を暗殺した人物であるが、
韓国では「義士」と称され、
抗日闘争の国民的英雄とされている。
 
事件後、投獄された旅順監獄で安に関わった多くの日本人が、
安の人柄と思想に感銘を受け、
安と深い情的交流を交わし、安の直筆の墨書を大切に保管し、
日本に持ち帰った。
 
 
墨書にはすべて、独立運動の成功を誓い、
切断した薬指の短い左手の手形が押されている。
安は死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、親日派であった。
東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえることを願っていた。
 
安重根(1879~1910)はどんな人物か?
大韓民国黄海道海州の名門両班(ヤンバン)出身。
幼いときから尚武的性格を持ち、1895年にカトリックに入信。
1905年の乙巳保護条約を契機に民族運動に目覚め、
愛国啓蒙運動に参加。
1907年丁未七条約が締結されると、
国外亡命を決意してウラジオストックに行き、
義兵の参謀中将となる。
1909年10月26日、ハルピン駅で伊藤博文を射殺した。
翌年3月26日午前9時、伊藤の月命日と時刻に合わせて処刑された。
今年2021年は安の没年後111年になる。
 
彼は天賦人権論の立場で社会進化論を批判し、
弱肉強食的な世界の現実を積極的に批判した。
 
獄中で書いた『東洋平和論』
そうした思想を記そうとしたものだが、未完に終わった。
獄中で関わった日本人は?
水野吉太郎(主任官選弁護士・高知出身)
安重根の人柄に感化され、安は朝鮮の志士であるという弁論を展開して、
情状酌量を求め、殺人罪としては最も軽い懲役3年を主張した。
水野も手帳に安重根の親筆を得ており、彼は処刑の朝の面会に同席し、
この時、安からキリスト教に改宗を勧められ
「天国で共に語り合おう」と言われている。
水野は安の志を尊重し、死刑執行後に皆で
「東洋平和のため万歳三唱」することを願い出たが、
刑務官に許されなかった。
 
溝渕孝雄(検察官)
獄中で『東洋平和論』書き終えるまでの時間的な猶予と、
死刑の時に身に纏う絹の白装束衣を願い出た。
安は溝渕から遺言を求められると
「諸君が、東洋平和のために御尽力されることを願う」とだけ言った。
 
千葉十七(看守・宮城県出身)
安の気高い愛国の情にうたれ、安重根畏敬の念を深めた。
安は処刑の直前、
千葉に「為国献身軍人本分」
(国家のために献身するは、軍人の本分なり)と、書いて贈り、
 
「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、
生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語った。
 
千葉は後に故郷の宮城県に帰った後も、生涯、
1日も欠かさず安の供養を欠かさなかった。
 
千葉の菩提寺のある栗原市大林寺には、
この遺墨を複製した大きな安重根顕彰碑が建てられ、
碑の裏には山本壮一郎県知事(当時)の
「日韓両国永遠の友好を祈念」の文字が刻まれている。
1992年9月6日からは日韓合同で毎年、
安重根・千葉十七夫妻の合同供養が執り行われている。
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栗原貞吉(刑務所長・広島県出身)
安に感化された1人で、安に煙草などを差し入れ、
助命嘆願をするなどしていた。
処刑前日に、彼も絹の白装束を安に贈り、
厚い松板の特別な棺を用意した。
死刑執行後、栗原は安の死を惜しんで退任して
故郷の広島に帰った。
 
八木正礼(看守・高知県出身)
安の墨書「言忠臣行読経漫放仮行」を記念に持ち帰り、
2004年、孫の八木正澄氏が韓国に寄贈した。
 
安岡
「國家安危勞心焦思」は、
「国家の安全と危機に心を労じ思いを焦がす」という意味だが、
これを贈られた安岡も、日本に持ち帰った。
 
津田海純(浄心寺の住職・岡山県出身)
安からの遺墨3点(①~③)は浄心寺で保管、
1997年に龍谷大学に寄託した。
当時、津田は「安重根の平和思想に感動を受け
厚い信頼関係を築き書をもらった。
安重根は多くの人に感動を与えた」と言っている。
『不仁者不可以久處約』
(仁愛の心を持たぬ者はつつましい生活に耐えることができず、
安楽な生活に長くとどまることもできない)「論語」
『敏而好学不恥下問』
(敏にして学問を好み、自分より下の人に教えを請うのを恥としない)「論語」
『戒慎乎其所不睹』(君子は見えない所をつつしみ深くする)「中庸」
 
安の偉業を伝える「安重根義士記念館」
1970年に韓国に建設されている。
この遺墨を所持していた彼らは、
所持しているというだけで逮捕される恐れがあったが、
大切に保管し、戦後この遺墨は、遺族によって韓国に返還、
安重根義士記念館に寄贈されている。
在日本大韓民国民団は、
2014年3月26日に東京で開催された安重根の追悼式で、
安重根義士がテロリストではなく、
東洋の平和を切に願った義人だという事実を知るべきであり、
今後、安義士の思想が東洋平和の礎となるよう努力していくと表明した。
 
裁判での陳述や東洋平和論を読む限り、
安自身は反日を主張しておらず、 
これは看守など獄中での日本人との親しい交流でも明かで、
親日派であった。
安重根の日本観は、不幸な形で誤解されている。
 
韓鶴子総裁の自叙伝の『涙をぬぐう平和の母』203~204頁には、
東洋の平和を成し遂げられるように、
1993年「旅順殉国先烈記念財団」を設立し、
安義士が刑を言い渡された「大連法廷」を、
当時の姿に復元したと書かれている。
 
 
参考資料 
*安重根義士の遺骨発掘と遺品・遺物所在把握について 
 ~ 日韓共同作業を日本社会に提案する ~趙 東 成(安重根義士紀念館館長)
*安重根裁判と高知の奇妙な因み – 오마이뉴스 모바일
*韓鶴子自叙伝の『涙をぬぐう平和の母』
 
 

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