水野吉太郎(主任官選弁護士・高知出身)
安重根の人柄に感化され、安は朝鮮の志士であるといい、
情状酌量を求め、殺人罪としては最も軽い懲役3年を主張した。
水野も手帳に安重根の親筆を得ており、
彼は処刑の朝の面会に同席し、
この時、安からキリスト教に改宗を勧められ
「天国で共に語り合おう」と言われた。水野は安の志を尊重し、死刑執行後に皆で
「東洋平和のため万歳三唱」することを願い出たが、
刑務官は許さなかった。溝渕孝雄(検察官)
獄中で『東洋平和論』書き終えるまでの時間的な猶予と、
死刑の時に身に纏う絹の白装束衣を願い出た。
安は溝渕から遺言を求められると
「諸君が、東洋平和のために御尽力されることを願う」とだけ言った。千葉十七(看守・宮城県出身)
安の気高い愛国の情にうたれ、安重根畏敬の念を深めた。
安は処刑の直前、千葉に「為国献身軍人本分」(国家のために献身するは、軍人の本分なり)と、書いて贈り、
「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、
生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語った。
(墨書「為国献身軍人本分」:薬指の短い左手の手形)
千葉は後に故郷の宮城県に帰った後も、
生涯1日も欠かさず安の供養をした。
千葉の菩提寺のある宮城県栗原市大林寺には、この遺墨を複製した大きな安重根顕彰碑が建てられ、
碑の裏には山本壮一郎県知事(当時)の
「日韓両国永遠の友好を祈念」の文字が刻まれている。1992年9月6日からは日韓合同で毎年、
安重根・千葉十七夫妻の合同供養が執り行われている。栗原貞吉(刑務所長・広島県出身)
安に感化された1人。 安に煙草などを差し入れ、助命嘆願をするなどしていた。
処刑前日に、彼も絹の白装束を安に贈り、
厚い松板の特別な棺を用意した。
死刑執行後、栗原は安の死を惜しんで退任して
故郷の広島に帰った。八木正礼(看守・高知県出身)
安の墨書「言忠臣行読経漫放仮行」を記念に持ち帰り、
2004年、孫の八木正澄氏が韓国に寄贈した。安岡
「國家安危勞心焦思」は、
”国家の安全と危機に心を労じ思いを焦がす”という意味。
これを贈られた安岡も、日本に持ち帰った。津田海純(浄心寺の住職・岡山県出身)
安からの遺墨3点を浄心寺で保管、
1997年に龍谷大学に寄託した。当時、津田は言っている・・・
「安重根の平和思想に感動を受け
厚い信頼関係を築き書をもらった。
安重根は多くの人に感動を与えた」
この遺墨を所持していた彼らは、
所持しているというだけで逮捕される恐れがあったが、
安の形見として大切に保管してきた。
戦後この遺墨は、遺族によって韓国の
安重根義士記念館に寄贈された。
安重根(1879~1910)
大韓民国黄海道海州の名門両班(ヤンバン)出身。
尚武的性格。1895年にカトリックに入信。
1905年の乙巳保護条約を契機に民族運動に目覚め、
愛国啓蒙運動に参加。
1907年丁未七条約が締結されると、
国外亡命を決意してウラジオストックに行き、
義兵の参謀中将となる。
1909年10月26日、ハルピン駅で伊藤博文を射殺。
翌年3月26日午前9時処刑された。
彼は天賦人権論の立場で社会進化論を批判し、
弱肉強食的な世界の現実を積極的に批判した。
獄中で書いた『東洋平和論』は未完に終わった。
・中央日報
・JBpress(羽田 真代:在韓ビジネスライター)
・産経新聞
・聯合ニュース
・朝鮮日報
・『韓国人が知らない安重根と伊藤博文の真実』 (祥伝社新書)
・『英雄視する前に韓国人が知っておくべき安重根の真実 』(K・ギルバート)
・歴人マガジン(伊藤博文の死因:暗殺事件の内容と今も残る謎とは?)