『転んだ1歳児を助けようとする2歳児』――
娘が撮影したその短い動画から、6年の月日が流れました。
当時1歳だった孫は、先日7歳の誕生日を迎えました。
その節目の日に、私はあらためて、あの一本の動画を見返しました。
そこに映っていたのは、 1歳、2歳、13歳の孫たちの姿です。
撮影場所は、家の近くの公園です。
家庭という最初の学びの場
やっと歩き始めたばかりの1歳の孫。
幼い子どもは、大人の想像を超える動きをします。
「静かにしている」「おとなしくしている」という状態は、ほとんどありません。
屋外に出た瞬間、子どもの世界は一気に広がり、
行動範囲は予測不能になります。
1歳の孫が先へ先へと歩き出すと、
2歳の孫は少し心配になったのでしょう。
「そっちに行っちゃだめだよ〜」
そう声をかけながら、小さな体で必死に後を追いかけます。
教えられていない「助ける心」
突然、1歳の孫が転びました。
その瞬間、2歳の孫は、
迷うことなく駆け寄り、 小さな体で抱き起こそうとします。
力が足りず、なかなか起こせません。
そこへ様子を見ていた中学1年生のお兄ちゃんが駆け寄り、
二人で力を合わせて、1歳の子を起こしました。
微笑ましい光景です。
当時、私はこの光景に強く心を打たれました。
2歳の子供も、人を助けようとする心を持っている。
誰にも教えられていないのに、 人を助けようとする心が自然に現れる。
ここに、人間の原点を見せられたように思えたのです。
人間の原点は、為に生きること
教育というと、 「何を教えるか」「どう導くか」に目が向きがちです。
この2歳の行動は、
人は本来、思いやりを内側に宿して生まれてくる という事実を示していました。
誰かに評価されるためや、 褒められることを期待したわけでもありません。
目の前で困っている存在を見て、 心が動き、瞬間に体が動いた――
それは、計算のない純粋な「為に生きる姿」です。
大人になるにつれ失われる感覚
大人になるとどうでしょうか。
私たちは成長するにつれ、 損得、立場、責任、世間の目を考えるようになります。
「関わらない方が無難だ」
「余計なことはしない方がいい」
心にブレーキをかけ、 誰かの痛みに気づいても、
見て見ぬふりをしてしまうことがあります。
無関心や無視というものは、悪意以上に人を傷つけます。
助けられなかったことよりも、
「気づいてもらえなかった」という痛みの方が、 人の心には深く残るのです。
宗教が語ってきた人間の本質
多くの宗教は、 「人は何のために生きるのか」という問いに向き合ってきました。
文鮮明師は、
「人間は愛を与えるために創られた存在であり、
生きる目的は、人の喜びと幸せのために生きることだ」と語っています。
2歳の孫は、この教えを知るはずもありません。
目の前で転んだ存在に心が動き、 自然に手を差し伸べました。
そこには、「人間の本来の姿」が、 何の装飾もなく現れていました。
家庭教育が社会をつくる
人が「人との関わり」を学ぶ最初の場所が家庭です。
「家庭は愛の学校」だとも言います。
家庭の中で育まれる思いやりや共感は、
学校へ社会へと広がっていきます。
国や世界平和も、 声高な正義や大きな理想だけで成せないものです。
転んだ人に手を差し伸べること。
痛みや悲しみに寄り添うこと。
孤独を見過ごさないこと。
努力を認めること。
そうした小さな「為に生きる実践」の積み重ねが、
社会を支え、世界を形づくっていくのだと思います。
6年前の一本の動画は、 人間の原点を静かに映し出していました。
その原点は、私たち一人ひとりの心の中で、 常に生き続けています。
