「ああしたら?」 「こうしたらいいんじゃない?」
そんな言葉は、 娘の耳をかすめていく雑音のようだ。 馬耳東風、馬の耳に念仏となるだけ。
だから、娘の心には響かない。 響かない言葉は結果を見いだせない。
自分で体験し、 転んで傷ついて、 自分が泣いて苦しんだところから培ったもの、 悟って得たもの、それは何よりも尊い。
決して娘を見放すわけではない。 静かに見守ってあげたい。
貴重なものを得させるために。
私が、やるべきことはただ聞いてあげること、
「うんうん」「そうなんだ~」
娘の苦しい思い、辛くて不安な思いに寄り添ってあげる、 ただそれだけでいいと思う。
で、次は・・・
「それで、あなたはどうしたいの?」 と聞いてみる。
自分で考えさせる・・・ 自分で選択させる・・・
これがすごく大事なんだと思う。
そうしたら、
「こうする!」「こうしよう!」 と答えは娘の口から出てくる。
「そうだね!お母さんもそう思うよ!」 これでいいのだと思う。 背中をポンと押してあげればいい。
親は自分の経験上、 子供には危ない橋を渡らせたくないもの。
だから子供が失敗しないように、 ああだこうだと子供に忠告して、 なかば強引にこちらの考えを押しつけてしまいがち。
だから、適当な距離感を持って 子供の気持ちに寄り添ってあげるだけで、 自らの道を歩み出すものだと思う。
そう願いたい・・・
そう信じたい・・・
「“親”という漢字は、 木の上に立っていないと見えない」
と聞いたことがある。
なるほどと思いますが、 実はこの語源正しくないそうです。
でも、「親は木のうえに立って見る」 この方が私は納得がいく。
親は木の上に立っていないと子供が見えはい。 木の上に立って子供を見てあげたい。
では『木』とはいったいなに?
あなたにとって「木」はなんですか?
「魚を釣ってあげるのでなく、 釣り方を教えてあげる」 こいうい親の姿勢も大事です。
「転んだっていい、立てばいいんだから・・・」
「いろいろやり散らかしたっていいんじゃない。 人生長いんだから・・・」
こんな言葉が必要な時もあるのです。