95歳になる認知症の母。
グループホームの介護施設で暮らしています。
母は昔から歌うことが大好き。
気分が良いと童謡を口ずさみ、
その場の空気をふっと和ませてくれる、そんな存在でした。
けれどある時、
「うるさい」という周囲からクレームがあったそうです。
それ以来、母はみなさんの居るリビングを離れ、
ひとり静かに自分の部屋で過ごすようになりました。
先日、施設を訪ねた日のこと。
リビングで、入所者さん全員8人が、テレビを囲んでいました。
画面は音のないカラオケ映像。
誰も歌わず、おしゃべりもせず、カラオケ映像だけが流れていました。
そこに、母の姿はありませんでした。
母は、陽の光が燦々と差し込む温かな自分の部屋で、
車いすに座ったまま、目を閉じていました。
声をかけると、ゆっくりと目を開け、
私を見つめて、静かに微笑みました。
何故かいつもより少し元気がありません。
母は、毎日、部屋の窓から空を眺めて過ごしているとのこと。
私は車いすの母の目線まで腰を落とし、
一緒に窓の向こうの空と雲を眺めてみました。
私は母の耳元でそっと告げました。
「空も雲も、みんな神様の姿ですよ。たくさん話しかけてあげてね。
お父さん(幸四郎さん)も、ここにいますよ。みんな、お母さんを見守っている。
寂しくなんかないでしょう?」
母は、何も言わず、静かにうなずきました。
帰り際、
いつもなら車いすのまま玄関まで見送ってくれる母。
ハイタッチでさよならします。
その日の母は部屋の中で、後ろ向きに手を振ってくれました。
その小さな仕草を、私は心に深く刻みつけて、
静かな委ねと、感謝の祈りを天に捧げました。
生と死。
出会いと別れ。
深い悲しみと痛み。
理不尽と感じる出来事。
それらすべてが人生の修行であり、
深い恵みであることを――
全てが感謝であることを――
わかっているつもりでした。
どうしても素直に受け入れられない時があります。
そんな時「95歳の母はどんなことを感じているのだろう」
私は、100歳で詩を紡いだ柴田トヨさんの詩集『くじけないで』をめくってみます。
これは、母が大事にしていた詩集です。

空 詩:柴田トヨ
寂しくなったら
私 空を見るの
家族のような雲
日本地図のような雲
追いかけっこを
している雲たちもいる
みんな 何処へ
流れているのかしら
夕暮れには茜雲
夜には満天の星
あなたにも
空を見上げるゆとりが
必要よ
母が見つめている空。
そこには、きっと歌声も、感謝の祈りも、愛する人たちの気配も、
すべて溶け込んでいるのだと思います。
今日も母は
静かに空を見上げているのでしょう。
母が見ている同じ空を、私もそっと見上げます。

