文鮮明師生涯路程~監獄での受難~

文鮮明、韓鶴子御夫妻
文鮮明師の生涯路程シリーズ「監獄と受難」をYouTubeよりお借りしました。

1946年5月、26歳だった私(文鮮明師)は北朝鮮に向かいました。
人々が共産党から逃げて南下する中、
神様の啓示を受け私は北上したのでした。
 
伝道活動を始めるとすぐに人が集まり、
教会は大きくなりました。
 
同時に自分の信者を取られたと言って、
キリスト教会から反対を受けました
 
伝道を開始してわずか2か月後、
私は共産党に逮捕されてしまいました。
 
容疑は南のスパイだというものでした、
しかし私には何の罪もありませんでした。
 
その日から約3ヶ月間、
監獄での激しい拷問の生活が始まりました。 
 
監獄では自白を強要され、
数限りなく殴りつけられました。 
 
私は肉を削られ、
血が流れても拷問に屈しませんでした。 
 
神様に救いを求める祈りも、
決してしませんでした。 
 
「心配しないで下さい」
と逆に神様を慰める祈りをしました。 
 
私は2度の逮捕の末に興南監獄に
収監されることになりました 。
 
判定で涙を流す教会員たちに
「元気でいなさい」と笑顔で手を振りました。 
 
送られた興南監獄・窒素肥料工場の実態は
残酷の一言に尽きました。 
 
小さな茶碗に2杯のご飯と、
1杯のスープが1日の食事の全てでした。 
 
毎日大量の硫酸アンモニウムを、
1日中袋に詰めて運びました。 
 
硫安によって衣服は溶けて擦り切れ、
皮膚はボロボロになりました。 
 
囚人の半数近くが1年以内に死んでいきました。 
 
死人の口の中のご飯さえ食べる環境の中で、
私は一つの決心をしました。 
 
「ほらこれを食べなさい 」
 
ご飯の半分を同僚にあげることにしたのです。 
 
3週間ご飯を半分わけ与えたあと、
全部食べる喜びで監獄生活を乗り越えました。 
 
興南化監獄での生活は2年5ヶ月にもなりました。 
 
私はその期間に模範労働者賞を受賞しました。 
 
気がつけば12人もの弟子を伝道していました。 
 
私が収監中に作詞した「復帰の園」という歌は、
今でも教会の礼拝で歌われています。 
 
1950年、韓国動乱が勃発しました。 
 
国連軍が興南を爆撃し、
私は監獄から解放されました。
 
30歳になっていた私の心は、
新たな決意にあふれていました。 
 
「私は『監獄に行け』と言われる神様よりも、
行かせなければならない事情を持っていた神様を先に考えました」
 
 

 
抜粋:
文鮮明師生涯路程シリーズより

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